「先日、家の売買契約をしたばかりなんですが……今から売るのをやめることはできますか」
お客様からご連絡をいただいたのは、契約から数日後のことでした。
住み替えのために売却を進め、価格や引き渡し時期にも納得して契約されたお客様です。しかし、その後ご家族の事情が変わり、予定していた転居が難しくなったとのことでした。
「まだ家を引き渡していませんし、受け取った手付金を返せば、元に戻せるのでしょうか」
不動産の売買契約後でも、契約を解除できる場合はあります。ただし、売主の希望だけで、いつでも無条件にやめられるわけではありません。
まずは事情を伺い、契約書と現在の取引状況を確認することにしました。
引き渡し前でも、契約は成立している
お客様には、最初に契約と引き渡しの違いをご説明しました。
「まだ名義も変わっていないので、最終決定の前だと思っていました」
売買契約を結ぶと、引き渡し前であっても、売主と買主には契約に基づく義務が生じます。鍵や残代金の受け渡しが終わっていないからといって、自由に白紙へ戻せるわけではありません。
買主様も、契約を前提に住宅ローンや引っ越しなどの準備を進めている可能性があります。
「まず、売却をやめたい事情と、契約上どのような対応ができるかを分けて整理しましょう」
そうお伝えし、受け取った手付金の額、解除に関する条項、期限の定め、双方の手続きの進み具合を確認しました。
売主の「手付解除」は、手付金を返すだけではない
今回のお客様が、特に驚かれたのは手付金の扱いでした。
解約手付としての手付金が授受されている場合、売主は、買主が契約の履行に着手する前であれば、原則として手付金の倍額を現実に提供することで解除できます。ただし、契約で定めた期限や条件も確認が必要です。
いわゆる「手付倍返し」です。
例えば、受け取った手付金が100万円なら、買主に提供する金額は合計200万円になります。受領した100万円を返すことに加え、売主がさらに100万円を用意する計算です。
「受け取った分を、そのまま返せばいいと思っていました」
お客様は、契約書を見ながら静かにおっしゃいました。
金額だけでなく、解除の意思表示や金銭提供の方法も重要です。「解除したいと連絡したから完了した」と自己判断せず、必要な手順を確認することにしました。
「契約から数日」でも、解除できるとは限らない
次に確認したのは、買主様の手続きがどこまで進んでいるかです。
「まだ一週間もたっていないので、間に合いますよね」
手付解除を考える際は、契約からの日数だけでは判断できません。相手方が「契約の履行に着手」しているかが重要になります。
履行への着手に当たるかは、行われた手続きの内容や契約の事情などによって判断されます。「引っ越し準備を始めた」「ローンの手続きをしている」といった情報だけで、一律に結論を出すこともできません。
今回は、仲介担当者が買主様側の進捗を確認し、判断が難しい点については弁護士への相談も含めて進めることにしました。
期限が記載されていても、その日まで必ず手付解除できると決めつけないことが大切です。
手付解除ができなければ、違約金を払えばよい?
お客様からは、こんな質問もありました。
「手付金での解除ができなかったら、違約金を払って終わりにするのでしょうか」
ここも、慎重に確認したいところです。
手付解除ができない段階で、売主が一方的に引き渡しを拒めば、契約違反の問題になる可能性があります。契約書には、債務不履行による解除や違約金について定められている場合があります。
ただし、「違約金さえ払えば、売主が自由に契約をやめられる」という意味とは限りません。買主が契約どおりの履行を求めることも考えられます。
違約金の金額や適用条件も、契約ごとに確認が必要です。売買価格の一定割合が記載されていても、それだけで解除の可否や必要な対応まで分かるわけではありません。
「払う金額だけを聞けば済む話ではないんですね」
お客様と一緒に、解除条項の内容を改めて読み直しました。
買主との「合意解除」を相談する方法もある
手付解除とは別に、売主と買主が話し合い、契約を終了させることに合意する方法もあります。
ただし、買主に応じる義務があるわけではありません。事情を説明したからといって、無条件で承諾してもらえるとは限りません。
今回のお客様には、売却をやめたい理由と、今後の住まいの見通しを整理していただきました。そのうえで、仲介担当者から買主様へ、解除について相談したい旨をお伝えしました。
買主様からは、
「こちらも住み替えの準備を始めています。まず、どういう事情なのか説明を聞きたいです」
というお返事がありました。
売主様の事情だけでなく、買主様がすでに負担した費用や予定への影響も確認し、双方が条件を検討することになりました。
お金の精算と解除条件は、書面に残す
今回の架空の事例では、話し合いの結果、条件を定めて合意解除することになりました。
書面では、契約を終了させることに加え、手付金の返還、別途支払う解決金の有無と金額、支払期限、精算の範囲などを確認しました。
仲介手数料についても、売買契約を解除すれば必ず不要になるとは限りません。媒介契約や解除の経緯などを踏まえ、仲介会社との確認が必要です。
「買主様と話がまとまれば、すべて終わりだと思っていました」
お客様は、確認事項の多さに驚かれていました。
口頭で「今回はやめましょう」と話すだけでは、お金や手続きが残る可能性があります。関係者との精算まで、内容をそろえて進めることが大切です。
売却をやめたいと思ったら、早めに相談を
なお、自宅などの不動産を売却する売主には、宅地建物取引業法上のクーリング・オフは適用されません。「契約から8日以内なら無条件でやめられる」と考えないよう注意が必要です。
今回のお客様は、手続きが終わったあとに、
「言い出しにくくて迷っていましたが、先に相談してよかったです。買主様にも予定があったことを、改めて考えました」
と話されました。
契約後に事情が変わることはあります。そのときは、受け取った手付金を独断で送り返したり、引き渡し準備を一方的に止めたりする前に、仲介担当者へ相談してください。
契約書、付帯書類、手付金の受領記録を用意し、売却をやめたい理由と現在の状況を伝える。必要に応じて弁護士にも相談しながら、どの方法が取れるのかを確かめることが、次の対応につながります。